ホネホネ先生の履歴書1

私の履歴書

 

人生に黄昏時があるとしたら、私の人生の黄昏時はおそらく今の時期がそれに当たるであろう。

時間に追われるようなサラリーマンの仕事から解放され、やりたい時に好きなことをすることが許される年齢になったことに感慨を覚える。っと言っても好きなことをやっているわけではなく、ただ自由にやっているだけだ。

残りの人生がそれほど長くはないと意識するようになり、改めてこれからの生きざまを考えるようになった。

人にはそれぞれの歩んできた道があり、境遇もそれぞれに異なるのが人生である。

私の人生を振り返ってみると、世にいう波瀾万丈とか驚天動地の事件もなく平穏な人生であったとは思う。

とは言うものの、振り返ってみると自分の中では大変であった多くのことが思い出される。

 

【父の生還】

舞鶴港の資料によると、昭和24年12月1日、旧ソ連のナホトカ港から舞鶴港に2隻の引揚船が到着したと書いてある。

そのうちの一隻に乗船して父は10年ぶりに旧ソ連から日本に帰国したのだと思う。

新婚一年の昭和15年に軍への召集を受けた父が満州で兵役に就いていた時期は戦闘もなく平穏であったと言っていた。

しかし、終戦の1週間程前になり、旧ソ連軍は日ソ不可侵条約を一方的に破棄してロシア・満州の国境を戦車500台を連ねて侵攻してきた。父の部隊のいた所にソ連軍が攻めてきた時には日本の敗戦が確定していて、ソ連軍は「戦争は終わった。君たちは国に返してやろう。持てる限りの身の回りの荷物を持って列車に乗り込め」と言われ、大喜びで列車に乗り込んだという。

列車は夜間にだけ走行し昼間は休止しているから太陽の方向が確認できず、日本に帰る方向とは逆方向へ走行していることに気付くのが遅くなった。ところが電力関係の知識の豊富な仲間がいて、電柱の向きが逆であることに気付き、日本の方向に帰っているのではなく、逆にモスクワの方向に向かっているということを察知して騙されていることがわかり大騒ぎになった。しかし、シベリアの奥地に来て今さら逃亡しても生きていけるはずもなく、止むなく命令に従うしかなかった。最終的に着いた処はシベリアの奥地のチタという街の捕虜収容所であった。

その後父は旧ソ連軍の捕虜としてシベリアのチタの収容所に4年3か月の間抑留され過酷な条件の下で強制労働を強いられた。一説には60万人とも70万人とも言われる捕虜の中に多くの死者が出たことは歴史にも残っている。

冬場にはマイナス40度以下にもなる極寒の地で、ほとんど食べるものもなく空腹を堪えながら強制労働に耐えてきた父。

多くの戦友たちが飢えと寒さで命を落としていったが、新婚一年の妻と高齢の両親を国に残してきた父は『こんな処で死んでたまるか!どんなことをしても生きて日本に帰るんだ』と歯を食いしばって生き延びたという。

与えられる食事は薄い水のような野菜スープにパンの耳の小さな切れ端が2個浮かんでいる、ほとんど食事とは呼べないものが一日に一膳だけ。これで農場、レンガ工場、山林の伐採などの強制労働を強いられたわけだ。

生きるためには配給の食事だけでは到底足りないため、いつも念頭にあったのは「食糧確保」であったということを私が物心ついた時期に父が話してくれた。 

農場へ派遣される者は山林伐採作業に行く者の為にも食糧を持ち帰る必要があった。

農場での作業の後、監視の目を盗んで、とうもろこし、小麦、大豆、ジャガイモなどを懐に隠したり靴底に入れて宿舎まで持ち帰り、ペイチカで焼いたり煮たりして戦友たちと分けあって飢えを凌いだという。

食糧の持ち帰りが見つかったら当然没収されてしまう。

夜間停車している貨物列車から農作物を盗み出すこともやった。

その際、白い雪景色の中で黒い人影が動くと、監視に見つかりやすく後ろから銃で狙撃される。耳の後ろを銃弾がかすめる恐怖の体験もしたという。

そうしてまでも命がけで食糧を調達しなかったら、飢え死にしてしまうのだ。

私が幼い頃であったため父に詳しく聞き出すこともなく、ただ問わず語りに父が話すことを黙って聞いていただけであったことが今になって悔やまれる。今なら、もっと、もっと聞きたいことは山ほどあるが、父が亡くなってから既に35年になろうとしている。

一方、母にとっては終戦当時、戦地から引き揚げてくるはずの父が何年経っても帰ってこない。母は、いつ帰るとも、また生死すらわからない父の帰りをひたすら待ち続けたという。しかし、嫁いだ夫がいない嫁ぎ先でいつまでも住むわけにも行かなくなり、母は、ある旅館の離れの元牛小屋を改造した部屋で独り暮らしをすることになった

母は父のことが不安で当時よく当たると言われていた占い師に父の安否を聞いたところ、占い師は「この人はずっとずっと北の、寒い寒い処にいる。生きているから帰ってくるのを待ちなさい」という返事をもらったという。

父は捕虜から解放されて日本に帰るためにナホトカの港まで出向いたことがあったという。しかし、目の目で定員になり、帰国は次の機会まで先送り・・・ということが2度あったと聞いている。

そして、ついに父が日本に帰る日がやってきた。母は舞鶴港まで父を迎えに行ったという。

こうして父が再び日本の地を踏んで家族のもとに帰ってきたのは父が満41歳になる手前のことであった。

 

小説「絶唱」は掛け落ちで結ばれた主人公の二人が軍への召集で引き裂かれ、七年の後に帰国した時には最愛の妻は病に伏せており、看病の甲斐なく死んでしまう。死んだ妻との結婚式を挙げ、続いて葬式を出すという悲恋の物語であるが、父の場合は、新婚一年で引き裂かれ、足掛け10年の軍隊と捕虜生活の後、日本に帰国した。

両親は「絶唱」にも負けない悲恋の主人公であったということも最近になって知った。

 

【出生】

日本に帰国した父は、母が暮していた翼山が近くに見える引田町の旅館の納屋で暮らした。

翌昭和25年9月、その元牛小屋の納屋で私が生まれるのであるが、もしそこが馬小屋であったら私はイエス・キリストにも匹敵する人物になっていたやも知れない。(あくまで推測ではある)

幼児期の私は聡明ではあったはずだが、夜泣き、疳の虫が強く、石神神社の氏子として奉納されたという。

おそらくは、隙間風が寒かったか、寝小便が冷たくて泣いたのだと思うが当時は癇の強い子と思われたようである。

私が生まれて暫くして、父母と私は小海の父の実家に戻り、祖父母と一緒に暮らすことになる。

 

【幼少期】 

<逸話>

母から聞いている幼児期の出来事で、特に記憶に残っていることが一つある。

両親が畑仕事をしている間、赤ん坊の私を布団にくるんで農道の傍らに寝かせていたという。農道のすぐ横は水路が通っていて田に水を入れるために少し下流で水路を堰き止めていたので水深は30cm以上にもなっていたはずである。

赤ん坊の私が寝返りをうった時に転げて水路に転落したのであるが両親はそのことに気づいてはいなかった。

母が気になって赤ん坊の方を見た時、寝ているはずの私がいなかった。両親が心配して探していたら、下流の堰(せき)の手前で布団にくるまって赤ん坊の私が浮かんでいたという。

転がって水路に落下した時の顔の向きがたまたま上向きであったから水を飲まずに済んだし、布団にくるまったまま転落したから沈まないで浮かんでいたことや水路が堰き止められていたためそこに留まっていたのが幸いしたという。

 いろんな幸運が幸いして、偶然にも死なずに済んだという私の赤ん坊の頃の転落事件である。

その後の私の人生では三度ほど死に直面する、あるいは再起不能と言われる事態が起きるわけであるが、いずれも運良く生き延びて回復してきたのは悪運の強さと言わざるを得ない。

 

 <初めての聞き分け>

昭和27年11月、弟が誕生した。いつものように母に「母ちゃん、おちちほしい」というと、母は「ねんねができたからおちちはねんねのものやからね。兄ちゃんにはもうないんよ」と言われた。それを聞いて悲しくなり、ここで泣いてゴネるか?、それとも受け入れるか?一瞬戸惑った記憶が今も残っている。そして「うん、わかった」と言って母の言う通りにすることにした。二歳と二か月にして人生で初めての「聞き分け」ができた瞬間であった。

想い起こせば、その後長男としての意識が芽生えていくきっかけになった大きな出来事であったと今になってわかってきた。 

 <三つ子の魂>

幼い頃、母の実家で婚礼があり、親族が三三九度の盃を回し飲む場面があったが、三三九度は形式的なもので、実際には酒を注ぐ格好をするだけなのだが、ある酒好きの男性の順番になり「私、戴きます!」と言ったそうだ。酒を注ぐ係の人は、恰好だけで止めているのに、「私、戴きます」「私、戴きます」と何度も言うものだから周囲の人がクスクスと小声で笑いだした。

そこで幼い私が『わろたらいかん!』と大声で言ったものだから、一同爆笑してしまったという逸話が我が家に残っている。仕切りたがる性格、まっすぐな性格は正に三つ子の魂百まで」である。

 

子供のころの私は、曲ったことが大嫌いで、筋を通す性格であった。そして短気であった。 

それは、祖父、そして父親譲りだと思うが、母も温和な中に頑固さが同居しているような性格でははあった。

祖父も父も、口で言うより手の方が早いという短気者だった。私も当然その性格を受け継いで生きてきた。

祖父の性格をよく表わしているエピソードがある。

当時の日本では田植えは手作業で行っていた。近所の女性たちが助け合って田植えをするのだが、年を取った祖父は、田圃の畔から田植えの様子を監督して「そこの端の列が歪んどる!と言って文句を言っていたという。

稲が育ってしまえば、少々の歪みなんか何の問題もないのだが、真っすぐでないと許せないのが私の祖父だった。

そんな性格が私、そして私の孫にまで引き継がれているのは怖いような気もする。

 

 <登園拒否> 

幼少期の私は病弱でよく寝込んでいたが、後に喘息であったと判明するまで風邪だと思い込んできた。

この喘息は34歳になって薬の副作用となって現れ生死を彷徨う非常事態を招く元となる。

保育所は2年保育であったが、病気でなくても最初の一年はほとんど休んでばかり、いわゆる登園拒否児童で母は私を月謝泥棒と呼んでいたことが頭に残っている。

長期間欠席する私を祖父が見かねて牛の手綱で私を縛って無理やり保育所まで引っ張っていかれたこともあったが、途中で年長組の担任の先生に見られて恥ずかしい思いをしたことを今も記憶している。

理由は自分にもわからないが、なぜか行きたくなかったのである。 

当時登園拒否という言葉はなかったから良かったが私が今の時代に生まれていたら大問題児と言われていると思う。

おそらく背骨の異常でホルモン分泌異常があったのだろうと今なら推測できるが、当時は怠け者、ズル休みと言われていたし、今でもそのように判断する親は多い。

例えば事故による神経の圧迫が原因であっても、育て方とか根性とか精神論で片づけてしまおうとする傾向が強いのは困ったものだ。

人はホルモンで動かされているということをわかってほしい。やる気があるとか、積極的だとかいうのはホルモンが十分に分泌されている人である。能力とか才能とは別の問題である。

 

【初恋】

私の初恋は、保育所の年長組の最後の卒園学芸会の時。

「浜千鳥」の歌をバックに二人の女の子がバレイを踊る場面があったが、その時の白衣に包まれた一人の女の子に胸がときめいたのが私の初恋らしきものであった。

その後、初恋は淡く短く消えてしまうが、小学2年の頃にその子のお母さんが亡くなり、胸につける母の日のカーネーションの色はみんなと違って白いカーネーションであった。

当時の風習としてお母さんのいない子は白いカーネーションを飾ることになっていたのである。

なんでわざわざ取り立てて違う色にするんだろう、同じでいいのにと子供心に疑問を持ったことを今も覚えている。

 

【小学校の参観日】

小学校の参観日には必ずと言えるほどでもないが、父が来ていたことが多かった。

小学校に入学する時に父から言われた言葉は「父ちゃんはもう年やから勉強を教えてやれん。まっすぐ前を向いて先生の言うことを一言も漏らさないように全部聞いて帰れ」

この言葉は、以後、中学を卒業するまで私の脳裏にずっと残っていた。

まっすぐ前を向いて先生の言葉を全部聞きとる・・・近所のおばさんから「相撲の前頭三枚目」と言われた。

つまり「頭を前に向けた三枚目の男」という意味である。

幼少の頃には近所のおばさん連中から「うなじの白い可愛いい子やね」とよく言われたものだが、いつの間にか白いうなじはなくなって白髪が目立つようになってしまった。

小学一年の参観で一番うれしかったのは、算数の時間である。

一枚の紙を二つに切って、それを重ねてさらに二つに切ると何枚になりますか?という問題。

四枚という答えは多くの子供ができるが、さらに二つに切ると八枚になり、八枚が十六枚になるところでは次第に答えられる人数が減ってくる。次は三十二枚と答えたのは私だけだったと記憶している、次は六十四枚、これも私だけ。

そして百二十八枚まで答えることができた時に後ろの父兄席を見ると、立ったままの父がにこにこして喜んでいた。

このころから勉強が楽しくなったような気がする。

この頃、田舎にもテレビが普及してきて、近所のお金持ちの家に小学生が数人で「テレビ見せてください」と押し掛けて、並んで正座して月光仮面をみた記憶が残っている。

 

【小学二年生】

幼少の頃の私は努力をしなくてもお勉強はよくできる子だったと思うが、母親譲りなのか運動神経はにぶい子だった。

体が小さくて、背の順に並ぶと男子では前から6番目。

鉄棒とか器械体操は大の苦手、かけっこは6人中、必ず5番目と決まっていた。

父は運動が得意であったようで、私の運動オンチにはいつも歯ぎしりをして悔しい思いをしていたように思う。

祖父も運動神経は優れていて、近所の人から頼まれてまったけを徳島の旧吉野川の船着場まで走って運ぶ仕事もしていたという。

香川と徳島の県境にある大阪峠のつづら折りの山道は道なりに走ったのでは時間がかかるから、山の斜面を駆け上って時間を節約したということも聞いた。今なら十分オリンピックにも出場できる体力はあったと思うが、晩年は傷めた膝が曲がらなくなっていた。

 

【小学三年生】

夜中に授業の夢をみた。先生の質問に対して「ハイ」と手を挙げたのは私だけだった。他のみんなもわかっていたと思うが、他には誰も手を挙げなかった。すると先生が「こんな簡単なことがわからないのか。全員立て!」と言ってコメカミをピクピクさせて怒り出した。

実はそれは夢であったのだが、その日の授業で、夢と全く同じ光景を体験したのには驚いた。

先生の質問に手を挙げる生徒が少ないという理由で「全員立て!」と言って怒り出した。

先生のコメカミがピクピク震えている様子はまさに前夜にみた夢の光景と全く同じだった。

これを正夢ということはずっと後になって知ったことだ。

当時、家の前の交番の娘でかわいい女の子がいた。チョウチョが舞う菜の花畑で、その子が手の大きさを比べようというから手のひらを合わせてみたら、なんと中指の長さがちょうど第一関節の長さだけ私の指が短かかった。年齢が3歳も下の女の子よリ小さな手をしていて恥ずかしかった。

当時は、父が離れの倉庫を算盤教室に貸していて大勢の子どもたちが算盤を習いに来ていた。私も小学三年生のころにはすでに算盤教室に通っていたと思う。おかげで銀行に入行してからも計算には何の苦労もしなかった。

 

【小学四年生】

算数の問題でひとつだけ、どうしてもわからない問題があった。それがどんな問題であったのかは覚えていないが、居残りをさせられて、できるまで何度もやり直しをさせられ、悔しくて泣いたことを今も覚えている。

そのころ、初めて友達をけんかをしたことを覚えている。ささいな小競り合いのようなものだが、手首を痛めてしまったのを一人の女の子がみて私のことをかばってくれたことがはっきり記憶に残っている。

その子が実質上の初恋の人だと思う。子ども心をときめかせた淡い恋であった。

後に中学に通うようになって自転車通学の彼女の姿が見えると遥か100メートル先の彼女に胸がドキドキしたものだ。

 

【小学五年生】

小学校時代の私は体が弱くよく病気で欠席していた。毎年冬になると風邪で休むことは恒例になっていた。

特に五年生の冬には1週間も寝込んでしまった。

これほど休むとさすがに授業の進行が気になって、病床で算数の本をみて自習したことがあった。

教科書の挿絵に大きな大人の自転車と小さな子供の自転車をが走っている絵があり、円周率の問題の単元であったことを記憶している。

一週間も休んでいたので、授業はかなり先に進んでいるだろうと思っていたら、何と、全く進んでいなかった。

初めての予習をしたところだから先生の質問にも簡単に答えられる。

後で友達から聞いたことだが、私が風邪で休んでいる間は、先生は「丸山君がいないから授業はしません」と言って、クラスのみんなはずっと自習をさせられたということであった。

今の時代では考えられないことだが、当時はこんなこともあったのだ。

このころから持前の頑固さが現われて、何事にも妥協は許さなかったように思う。

先生の説明に納得がいかなかったら徹底的に質問をするし持論は曲げなかった。

だから先生にとっては問題児、異端児であったと思う。

正しいことを主張しているのだから何の問題もないと思うが、後になって世間は正論だけでは渡っていけないことに気がついた。

この性格が人生を左右するなど夢にも思ってはいなかった。

 

 

私が育ったのは田舎の小さな小学校で全校生徒は二百人余り、私の学年は男女で38人であった。

合奏の時に大太鼓をやらされるのが実は厭だった。

卒業式では在校生代表の送辞の挨拶をやらされるのであるが、今とは違ってリハーサルなど一切なし。式の当日の朝になって全校生徒が講堂に集まりかけたところで担任の先生に呼び止められて、挨拶の原稿を渡される。そして「これを今から覚えなさい」と言われるが、読むだけなら何とか読めても暗記はむずかしい。それを何とか覚えて本番を迎えるが、あがってしまってうまく言えない。

冷汗がタラタラ、心臓はドキドキ。急に言われてもできないよーと文句をいう術も知らず、大恥をかいたあの日のことは、今も脳裏に残っている。

 

【小学六年生】

子どもの頃の私は、感受性が強いと言われた。少しのことでも感情が高まって涙があふれてしまう。悲しくて泣いているわけではないが感情が極まって涙が出るのである。

この頃にはすでに鳩やウサギを飼っていた。動物は毎日接していると可愛いものである。廃材を使ってハト小屋やウサギ小屋を作っていたから工作は得意だったのだと思う。

また、グロテスクな姿と見事なばかりの花の華麗さに惹かれてサボテンの蒐集にも熱心であった。当時の中学の先生がサボテンの大家で温室を6棟ほど持っておられた。そこに行ってサボテンを見たり、小さなサボテンを買って帰るのが何よりの楽しみであった。

【中学一年生】

昭和38年4月、中学に入学。私の地区には小学校までしかなく、中学は町の中学校へ自転車で通うことになっていた。

身長138センチの小さな体に大きな自転車は似合わない。足が届かず、道端の田んぼに倒れ込んだこともあった。

この時の同級生で印象に残っているのがH本君とA倍君。

H本君は背が高くて容姿は二枚目。当時流行の青春ドラマの主人公にもなれる見事なルックスであった。A倍君は運動神経抜群、身体能力は並はずれていた。二人ともバスケットをしていてかっこよかった。

6月には舟木一夫の「高校三年生」が大ヒットするが、私がラジオで歌を聴いて、すぐに紙と鉛筆を取って歌詞をメモしメロディーを覚えようとしたのは、これが最初であった。その後、ラジオを聴いていい歌だなと思うと歌詞をメモしたのはほとんどが舟木一夫の学園ソングであった。

小さなトランジスタラジオの音声が電波の影響で途切れそうになるのを耳を擦りつけて聞き取ったあの日。電波の影響ではなく電池が切れそうだったのだということは後でわかったことだ。

その後、舟木一夫さんは私の歌の師匠として心に残っており今も変わることはない。

 

【中学二年生】

この頃はちょうど成長期であったと思う。身長は1年で13cmほど伸びた時期であった。

成績も伸びて、一学期の期末テストでは学年で4番まで上がった。しかし、クラスではいつも2番目だった。

担任の先生から「岡本君と丸山君は東大でも行けるから頑張りなさい」と言われたことを今も覚えているが、残念ながら我が家は父の方針で「長男は家から出るな。進学は家から通える国立大学、就職も家から通える企業に限る」と言われていた。そして「二人の弟は好きな大学へ行け」ということであった。

長男でありながら兵役の為とはいえ両親と妻を残して10年近くも家を留守にした父の家に対する思いがわかるような気がして、父の意向に素直に従ったのがこの時期であった。

幼いころから父は戦争体験や捕虜の生活を問わず語りに話してくれたが、当時の私には時代背景もわからず、ただ黙って聞いていただけであった。今なら聞きたいことは山ほどある。

【中学三年生】

当時、私の住んでいた地区では畳表に使う「イグサ」の栽培が盛んであった。近所の農家はほとんどの家が「イグサ」を栽培していた。「イグサ」は冬の寒い時期に水田の氷を割りながら植え付けをし、真夏の炎天下で刈り取って染土で染色して天日で乾燥し畳表の原料として出荷していた。炎天下での農作業は厳しいものであったが、高収入になるため、父は私が26歳になるまでイグサの栽培を続けていた。従って私も銀行に就職してからも26歳まで農作業を手伝っていた。

 

<続く>